「主体」になるということ

www.jstage.jst.go.jp

 

見かけて気になったので、「思いやり」と「かげぐち」の体系としての社会、という以上の論文を読んだ。1994年の論文だそうだが、(奇しくもわたしの生まれた年と同じだが)、全く古びることのない名文だった。社会学系論文に全く明るくないことを前提として、思ったことを書いてみたいと思う。

 

本論文では、現代社会が形成される形式・技法として、「主体」(=私)が他者とともに、”承認と葛藤”という傷つけあう行為を日常的に行うことなく「社会」を運営していくそのあり方について述べられている。アイデンティティ(「存在証明」)の獲得には他者の、それも承認をしてくれる他者が必要不可欠であり、そのためには「思いやり」と「かげぐち」という日常にあふれる技法が必要ということだ。コントロール可能な甘い承認をお互い投げかけあうことで社会は平和に運営されており、その技法によって押しつぶされた葛藤は、「かげぐち」という形でこれもまた「思いやり」の枠組みの中で消費されていく。運営上は適切なシステムであるものの、これは自己の「主体」もまた失われる、自由の損失という欠点を孕んでいる。体系の維持に不可欠な「主体」の損失をどこまで個々人が許容し、また「社会」がそれによるデメリットをどこまで容認するのか。25年前に指摘されたこの「社会」の形式がいまなお十分通ずる現在において、生きにくさとはなにか、どう生きてけばいいものか。そんなことを考えた。

 

”<アイデンティティ>にはすべて、他者が必要である。(中略)「自分が何者であるかを、自己に語って聞かせるストーリー」は、「他者による事故の定義づけ」があってはじめて確かなものになる” ”社会は、自分ひとりでは獲得しえない存在証明のために、ひとびとが他者からの承認を求めて形成するもの" 

これは筆者も述べている通り自明のことと思う。そして他者もまた「主体」であり、「主体」である私の存在証明をするはずの他者をおびやかす。この「主体」同士の闘争(まるで万人の万人による闘争である)を回避するために、緩衝材としての「思いやり」が発動する。

他者からの「主体」におびやかされ、「主体」であるはずの自己が「客体」に落とし込まれるということは、日常においてよくおこる。恋人の求める理想の女性像を演じる彼女などはよい例だ。いやだと思いながらも変わらない日常を繰り返す被雇用者などもそうかもしれない。

しかし、「思いやり」が行き過ぎた結果ではあるものの、「主体」としての個人を放棄し、「客体としての自分」にすべての存在証明を依存して生きていくこともまた可能である。むしろ傷つきやすい自己を守るのにはよい手段だ。これはある自己と自己の乖離であり、「社会」の問題であると同時に自己同一性の問題でもあるように思う。「客体」と「主体」のパワーバランスが自己の中で発生し、それらは本音と建前と呼ばれながらも同一の自己ではある。建前と思いながらも行動を重ねていくと、それは他者からの評価として行為者に帰ってくる。アランの幸福論にもある通り、礼儀としてのほほえみの動作は人を孤立の悲しみから救うのである。干渉が起こらないわけは全くなく、それらは混ざり合って私に自己と認識されるようになるだろう。さて、「主体」はどこまで生き残れるのだろうか。

その「主体」を強く持ちすぎることによって、”感受性と機転と思慮によってはじめて可能になる"(原文より)「思いやり」を使用できない、または使用しない人間は社会のために排除されうる。ここに葛藤を強く感じながらも社会に属するためにしがみついている人間がいわゆる「生きるのがしんどい」人間であろう。

誰しも傷つきたくないという思いは持っている。しかしその中でしがみつく技術に長けていない、「主体」を失うことを恐れる生きにくい人間は何をするか。一つの方法が、「主体」と「客体としての自分」を使い分けるための複数の環境を持つことだと思う。もちろん分けた環境の先でも「客体としての自分」が発生するが、その個数が多いほどにひとつのある「主体としての他者」に飲み込まれる恐怖は薄れていく。

たとえば、名前、容貌を分けたり変えたりする。これらの直接的に個人を決定するレッテルは、他者からの自己の過去へのアクセスを許容し、他者から現在だけでなく過去も含めて飲み込まれる恐れが発生するため、変更によってそれらを回避することが可能となる。特にひとつのある「主体としての他者」に飲み込まれる恐怖を持つものは、積極的に自己を分離させることによってその恐怖を避けようとする。犯罪を犯した、などの大きな問題に限らず、すでにその個人によって「客体」でしかない個人の決定事項、すなわち社会的立ち位置、性別、年齢、等々。この点において名前と容貌を容易に"変更"(あくまでも偽りとここではとらえない)できるインターネットはやりやすいところがあるだろう。

 これは、「客体としての自分」と「主体」を無意識に、違和感なくうまく癒合させることが可能な人間である、またそれが可能な環境に属している場合には起こらない事象であろうと思う。原文には「社会」の中で「思いやり」の体系のなかにいて、「かげぐち」の技法を使いながら生きている人間について、以下のように述べられている。

"ほんらいの私は「かげぐち」など言わないのだ、「かげぐち」は一時的な私なのだ、私の持っている道徳心は自分の言った「かげぐち」を許せないほど高いところにあるのだ、「思いやり」深いのだ、という自己のリアリティを再度確認するのである"

これは自己を対象にした性善説である。自己の肯定先がすでに「客体としての自分」の中で完結してしまっている。そこにはもう元々の「主体」などないように思える。もちろんこれは極端な例であることは理解している。

あるひとつの「思いやり」の体系の中の住人となってしまうと「主体」も「客体」もなくそこで完結してしまうと思われる。随分先に述べたとおり、これも一つの生き方であることに間違いはないが、そこに葛藤を持つことは、よく言えば体系を俯瞰できるということにもなる。たとえ先に排除を受けたとしても、一種意識的に「思いやり」をやめている状態になる(千葉雅也氏的に言うと、「ノリ」から降りる)こともまた一つの生き方ではないか。

 

「主体」がたったひとつのある「主体としての他者」に乗っ取られることを防ぐには「存在証明」をしてくれる環境を複数持つことが重要であるという、結果的によくある論調になってしまった。しかも書いたこと全ては全体としてみればとりとめなく、この言葉でまとめとなるとは思えない。詰めなくてはならない視点はたくさんある。あくまでも思考記であるという言い訳を一つおいて、今日は筆をおこうと思う。

鍵がない

心が悲しい気持ちで満たされると本当にしっかり思考が空回りする。行動を起こしさえすればそれなりに幸福感を得られそうな事柄に手出しする元気もわかない。それがどんなに簡単なことであったとしても、だ。

久々に鬱屈していた。この気分はなりはじめてしまうと最早何が原因だったのかは直接の問題ではなくなる。いま悲しくて、辛い。それにどうしようもなく振り回されてしまう。どうにも纏わり付いた負の感情を積極的に打ちはらうのは得意ではない。

そんななかで帰路について、スーパーに寄り、家に着いて、鍵が無かった。

鍵がない。

ひとつの問題の発生である。

解決されないことで直接的に不利益を被るのは自分だけであり、尚且つある程度致命的である。

自己解決する必要度の高い問題の発生というのは思考回路の強制的な一本化に非常に役に立つものだ。気づいた瞬間からまるで意識に登る前かのように自分の行動の振り返りと次なる行動策がいつのまにか浮かんでくる。可能性の最も高いのは職場に置いてきたことで、次点でスーパーで、なくはないのが道中での紛失。見つからなかった際にするべき各方面への連絡と今日の宿泊先と。翌日以降には大家に相談に行くべきか。

そうしていると鬱屈はあっても押しやられていくもので。

結局第一候補の職場に普通に置きっ放しにされていたわけだけれども、解決したころには悲しい気持ちはなりを潜めていたのであった。むしろウォーキングできて良かったなあという満足感があったくらいだ。

負の感情が起こったときにそれに満たされないようにするのは比較的難しいことで、そのきっかけを自分から探しにいく、行動に移すのは相当にエネルギーが必要である。人に機嫌をとってもらうのはあからさまに悪いことだし、自分で自分の感情を完全にコントロールできたら理想的なのだろうけれども、そのきっかけくらいは外部委託しても良いのではないかと思った。

今回の鍵の紛失はただの事故だけれども、そんなきっかけを与えてくれる人間関係があると少しだけいいのかもしれない。もちろんその相手に当たり散らすのはあってはならない。綺麗にきっかけだけを置いていってもらえる距離感は、こちらの礼儀無しに実現可能なものではない。

人間なので、悲しくはなるし、鍵もなくす。

でも丁寧に生きていけたらいいなと思う。

 

 

何も考えたくない。

家に白くて足袋のように親指だけ離れている靴下がある。確かどこかに宿泊した時に浴衣についてきたものをそのままもらってきてしまったのだと思う。わたしが履いた靴下が誰かにリサイクルされることはないだろうからもらって悪いものではないだろうなとも思う。

わたしはその靴下が嫌いで、なぜなら親指だけ離れているからだ。その靴下の存在意義の否定である。それならさっさと捨てれば良いものを、そこにあるというだけで一週間に一回くらいは履かれている。毎回何だかんだ履かれて、洗濯され、収納され、また履かれている。洗濯しているのはわたしなのだが。

ルーチンに一度乗ってしまったものをそこから放つのは嫌いな靴下ですら難しいらしい。地味にエネルギーがいる作業だ。

別に靴下マニアでも何でもないし、よく物をなくす上に物を探すという情熱をあまり持たないので、靴下は無くしても良いよう同じものを多量に買ってごまかす事が多い。靴下に限らず、ペアのものはペアでなくなったと気づいた瞬間にペアでなくなるものであって、気付かなければペアのままだからだ。そういったものはするりとルーチンから抜けていくようだ。多分6枚3ペア同じものを買って5枚無くして初めてまともに「無くした」とわたしの頭の認識にのってくるのだろう。

嫌いな靴下はなぜかなくならない。これは本当に1枚無くしたら使い物にならなくなるというのに、杜撰に扱おうがすっかり2枚で毎週鎮座している。はやくどちらかにいなくなってほしい。

嫌うというのは意識が向かうということだ。特殊に意識に登ってくる、ルーチンに収まった嫌いな物体を排除することのなんと難しいことか。人間も生活もそうなのかもしれない。だとしたら嫌だなあ。できれば6枚3ペアの好きでも嫌いでもない靴下を無くさないような人生が送りたい。とはいえもう手元に4枚しかないし彼らが元々のペアだったのかは全く定かではないのは人生だから致し方ないのであった。

 

自分の人生を切り売りするような文章を書いたら終わりだと思っていた。小説を書くならその人間を外から動かす神になるべきで、その登場人物の「心情を理解」する存在でなければならないと。しかしそれで文字を書くのを諦めてしまうほど馬鹿馬鹿しいことはないなと思った。始まる前から高い高い壁を設定して結局やらないのはそれこそ意味がない。
文字があることで、他人に伝えることができるし遺すことができると再発見したことがあった。当たり前だけれど、あえて意識することなんか少ない。文字が無くなれば文化がなくなるなんていうとなんだか大きな話な気がしてくるけれど、一人の人間の小さい人生にだって同じことが言える。遺すことは大事だ。どうせ忘れてしまうのだから。
文字は自分の脳に収まらないことを記録する外部記録装置である。脳は頭が良くて頭が悪いから忘れるという機能をもっている。脳の頭の良し悪しなんておかしな表現ではあるけれど。
他人に向けた文章と自分に向けた文章というわけ方がある。でも身をもって思う、ある精神状態の時にしか自覚できない、理解できないことなんて膨大にある。自分も昔の自分の気持ちはわからない。ニヒリズム的に他人の気持ちはそもそもわからないというのは良くある話だが、わたしの場合、自分の気持ちもすぐにわからなくなる。人間は連続性をもって個人と認識されるものではあるけれども、その連続性は毎時間ごとに限りなく取捨選択されていて、捨てられた感情は自分にとっても自分でなくなる。思い出すという行為そのものが過去の自分とのコミュニケーションというわけだ。
自分は自分とコミュニケーションを取るのが下手だが、それも「コミュ障」ということになるのだろうか。過去の自分との対話が得意な人間は一体どう他人に見られるのだろう。
すぐに第三者を設定するのも良くない癖だ。プライドが高いのだろう。よく見られたいから、見られる文章を書きたがる。書くことをすぐに恥ずかしがる。そして見せたら見せたで、高評価を期待する。つまらない生き物だ。
だからこそ、人生を切り売りするような文章を書いたら終わりだなとと思うのだ。プライドのせいだ。自分とかけ離れた世界が批判されようとそれは自身のアイデンティティは傷つかない可能性が高い。しかしかけ離れた世界は書くのが難しい。そこで筆を止める。諦める。そうやって生きてきたように思う。
発言の責任というか、著作権が全て自己に還元されるのは面映ゆいところがある。全て考えて発言しているのは自分であるにもかかわらず、日常を送っている自分とそれを表現している自分が結びついていることを知られたくない他人というものが存在する。世界を分けて生きている。名前を分けて生きている。ペンネームやら源氏名やらというのはそういう心情からくるものだろう。それが好きか嫌いかは何に因るのだろうか。インターネットをどう捉えて生きてきたかという世代間格差もあるかもしれない。理解されにくい趣味や活動をしているかどうかにもよるかもしれない。表の自分はまるでメジャーな世界に生きているような顔をして、メジャーでない部分は別の世界で別の名前で生きていく。マイナーが許され辛い社会であることにも関係があるのかもなと思った。

 

忘れた頃に思い出して書いてみると大体普段考えていることなんて重複しているなと飽き飽きする。その中にもわたしがわたしとして連続性を保つために捨てられた、死んだ思考を遺しておけるだけでも良いことにしよう。

夢というかなんというか

最近夢見が悪い。

というか、夢の中での体験のせいで、起きてからばつが悪い。特段怖い思いをするとか嫌な記憶がPTSD様に引き起こされるとか、そういう夢がないわけではないのだけど、奴らは単体ではそこまでのダメージを与えにはこない。僕は自分が自分である夢しか見たことがないためか、夢の中でやってしまった失敗についてアァーと攻撃を食らうことが多いのだ。そしてこいつらが如何ともたちが悪いのであった。第三者目線からの夢を見る人間も世の中にはいるそうだが、彼らにとって、このような夢の中での失敗の恥ずかしさを感じることはやはり難しいのだろうか。いやそもそも普通は気にしないものなのか?

夢は現実に起こったことを脳が整理している過程らしい。そう思うと、先に述べたような嫌な記録の亜再生(全く同じでなくとも、ほぼ同じ状況として夢の中に還元される)はそこまで起床してから憔悴させられるものではない。むしろ夢の中でしか起きていない出来事、つまり個人的体験として「1回目」であり、そしてやっちまった物事は変にばつの悪い記憶として残るのである。そしてそもそもその記憶は「この世界では」他の誰の記憶にも残っていないという。まさに覚えていても誰も得をしないし誰の為にもならない記憶。是非とも海馬と大脳新皮質にはもうちょっとまともな記憶の順番付けをして頂きたい。君たちは間違っている。

一応夢の中で僕が誰かと君の名はしている可能性もあれば、胡蝶之夢パターンで今の僕が夢の中だと思っている僕が本体の可能性もあるのでこの世界では、という注釈を付けさせてもらった。ちなみにこのなんとも香ばしい注釈を付けるに至った理由はそれなりにある。

どうにも、いちいち世界を救う羽目になるのである。

同じ世界だったり、異なる世界だったり、地球規模だったり、都市規模だったり、はたまたご近所付き合い規模だったりするのだが、どうにも、寝ると、世界を救う羽目になるのである。そして初めにお伝えしたばつの悪さはこの点において大きく関わっている。

世界を救う物語が終わる前に起きる時間になってしまうのである。

つまり毎回毎回世界を丸投げしている。救う流れになったにもかかわらず。申し訳なさすぎる。これがばつが悪くなくて一体なんなのだろうか。脚本家はその脚本にGOサインを出す前にもう少しこちらの世界のこの僕の起床時間を考慮した方がいいと思う。

もしかしたら僕の意識というものはもう一次元か二次元上の世界でなんらかの形でクラウド化されており、複数の行為主体が僕の意識にメタ的にアクセス可能であるからこんなことが起きているのかもしれない。そして僕が僕として感知できる意識は1つしかないので、バラバラと世界を救う羽目になるのだろう。その場合脚本家もなにもあったものではない。クラウドサービスを作った奴が悪い。どうにかして欲しい。もっとも、僕のこの状態は次元が異なるため彼らには認知ができないのであろうからどうしようもないのだが。そんなこんなで時々ゲームの中の主人公達に同情したりする。触らなくなったゲームに償いを。

終わった物語はキャッシュから削除されている可能性がある。だから僕には「また世界を救えなかった」記憶しか残らないのかもしれない。また世界を救えなかった、ってなんだ、主人公か、っていう。主人公です。今回の話は僕が主人公であることを前提に進んでいる。

 

夢見が悪いのはこの世界から二次元上にいる奴のせいだいう結論になった。さて、今日僕は何を救い、何を忘れ、何を救えなかったと記憶することになるのか……。その記憶自体は「僕」のものであるということは、やはり不思議なものである。

 

 

 

 

政治の話はよくわからない

ドナルド・トランプ氏が大統領になってしまった。

Brexitといい、今年はなんなんだろう、大衆ってすごいと思うことの多い年である。大衆の構成員がマジョリティであることに胡座をかき、慢心し、その体制の継続に労力を支払わなくなったときに世の中はひっくり返るんだろうなと思わせられる。

もっと言えば、大衆の構成員の中の、本当の意味でリベラルでいることが可能な知識層か完全に肩透かしをくらったということだし、それは一部のトランプ氏支持者が望んでいた結果でもあるのかな。4年間が始まるのはこれからなんだけど。この先のシナリオはなんだかんだでヒラリー基準で書いてた人の方が身近には多い。僕もそうでした。

で、疑問に思ったのが、なんで僕はこれだけヒラリー擁護の声ばかり聞いていたのかということである。ネット含む僕の観測範囲にトランプを「大歓迎」している人(=ヒラリーとの比較なしにトランプを評価している人)はほとんどいなくて、なんでなんだろうって。

しかし、ひどく観測範囲の問題なのを感じる。まず、今日本にいるという点によって。社会に不満で金銭的に不安で重苦しいのなら、「なんとかしてくれそう」なのも「楽しそう(未来がありそう)」なのも「今の社会に一泡ふかせそう」なのもトランプだけど、その層の言葉が言語を変えて海を渡るのはハードルが高かったのではないかと。そして、僕の周囲の人間のほとんどが、日本において、リベラルによって何かを獲得しうるマイノリティか、先述した”リベラルでいることが可能な知識層”であったということ。本当にそれだけだったんだと思う。おれたちはリベラルクリーンなアメリカしか知らなかったのだ。

そもそもいままで社会保障だったり低所得者救済だったり女性地位向上だったりマイノリティの人権だったり、そういうリベラリズムを掲げているのが現体制側だった、ということがまず日本では考えにくいことだ。リベラルって、正直マジョリティの特徴を持つ人間に必要性を分かってもらわないと存続できないので、かなりハードルが高い。「ちょっとリベラル」な層が、「変化と革新を期待して」トランプに票を入れたのが勝因とか、「負け組白人男性」(日本で言う中年童貞と似たような層だろうか)が、かつて自分たちが白人男性であるというだけで得られていた栄光が失われたという意識を持っているところを見事に票田にしたとか言われている。なるほどなあと思った。

みんな、自分が得をしたい。できれば努力せず。そういうことなんですね。

一番に思ったのが、アメリカも日本と根本は同じだったんだー!ってこと。倫理の話題はアメリカで本当に進んでいるし、日本は「人権後進国」だという話をしょっちゅう耳にしていたし、アメさんはもうこの手の問題において社会のレベルが段違いなんだろうなと思っていた。実際肌の色による明確な差別とかは日本にはあまりなかっただろうし、大衆が考える機会は圧倒的に少なかったという歴史の差はあると思うけど。でもアメリカにも少なくとも半分、あまりに平等化していく社会に自らの立ち位置の危機感を覚える人間がいたんだなあと。正直知らなかった。

Brexitでも大きな争点になっていたのはやっぱり移民問題で。今回もそれと、それの近傍にある問題が一つの争点だった。移民、日本に来ます、いいですよね?と言われたら建前上NOとはちょっと言いづらい。でもそれを表明する場が「誰も見ていない、個人も特定されない」投票場の空間だったら。NOと言うことで、自分に非難が降りかかってこない場所だったら。それでもYESと、言えるだろうか……。

わたしは仮に自分がアメリカで同じくらいの社会的立ち位置にいて、投票権があったら、全然トランプ反対派ではなかったと思う。トランプという本音。ヒラリーという建前。決めるのは自分の「倫理観」。本当にヒラリーに投票”できた”か?

そんなわけで、全然今の状況に反論やら、非難やら、できなくなってしまったのである。当たり前にトランプの方に危機感を持っていた私は、上から目線とか、自分は安全域にいながらものを語るとか、まさにそれをやってしまっていたのであった。選挙の結果が出たときによく目にした、「もっとも愚かな中流の思考」である。物事は全然簡単じゃなかった。というか僕やっぱりリベラルじゃないんじゃないか?倫理について考えるとリベラルにならざるを得ないというだけなのでは。

 

本当の意味でリベラルになることが可能だった知識層、どれだけいたんだろう。そして、それでも半分、ヒラリーに票が入ったということがむしろアメリカの多様性と、倫理観の現れだったのではないかと思った。

どうも話が二転三転していけない。論として穴がありすぎる。今後も思考し続ける必要がある。絶対に。

 

 

ラノベが文学の扉になるかについて

みみずくん@ずっと学問@noboriryu_taka

こんなこと言うと怒る人いるけど、私はライトノベルは読書の入り口としても認めてない。入り口は江戸川乱歩とかルブランの推理小説で良い。まずラノベ読んで読書した気になってるのが腹立つ。ラノベの中に後世残る作品がいくつある?時間が勿体無い。この事だけは理屈とかじゃなく認めない。

 

 と、こんな意見を見つけたのでいくらか言及したりしていた。

まず前提としては、僕は後世に残るかどうか、有名になるかどうかわかってからたしなむというのも悪くはないけど、同じ時代にいるものとしてちょっとつまんないよねという立場であることです。時間がもったいない、認めないというのはあまりに面白くない。

 

まず自分の体験として話をする。

微妙に世代が上であり、電撃文庫がそれなりに身近な存在になって、ライトノベルに積極的にならずともアクセスできるようになったときには既に中学生だったので、この問題、実は当事者としてはよく分からないので反論が出来ない。しかし、ハリーポッターとかダレンシャンとかデルトラクエストとか守り人シリーズとかレイチェルとかバーテミアスとかエラゴンとかブレイブストーリーとかそういうファンダジーにまみれた読書をしていた小学生時代は過ごしていた。これらは多分ラノベレーベル小説と根本的には種類として変わらないと思っている。じゃあ彼の言うような、乱歩、を読んでなかったかと言われると読んでたのよね。

前述したとおり、その後ようやくラノベが近しい存在になって、ハルヒキノ世代はそこそこ手を出してしっかり読んでいる。そしてなんかカッコいいからという理由で星新一やら村上春樹やら、森博嗣やら福井晴敏やらに手を出し、現代小説沼に片足を踏み込み今に至るわけである。

つまり、いわゆる「お決まりハチャメチャ学園展開ラノベ」が台頭するようになったときは既に高校生になっていたので、テンションについていけずその手のものが全く読めなくなってしまっていたんです。初めてその手のものに触れたのはたしか「バカとテストと召喚獣」だったと思うのだけど、テンションについていけず本を途中で放棄するという当時のわたしとしては衝撃的な事があった。

結局わたし自身は、今の世の中で想像されるような「いわゆるラノベ」を全くに等しいほど読んでいない。だから分からんのです。それらがあまりに広すぎる書の国の「入り口」となりうるかどうか。わたしはそれを経験していないから。入り口でなかっただけでなく、そもそも、読んでいないのです、たぶん。

 

夏目漱石江戸川乱歩も当時の「超流行作家」であり、「教養」なり「崇高な趣味」なりではなかったというのはよくある話なので今回は言及しません。その上で、彼の気持ちも分からんでもないのです。今回焦点になっているのは、

”お決まりラノベは本当に、「ラノベ形式」でない書に次のバトンを渡せるのか?”

って事だと思うのですよね。

 

その疑問を持ちたくなる気持ちは正直この手のラノベを「読んだことのない」人間であるわたしにはよくわかるのです。あの形をしていて、あの絵があって、あれくらいで終わるライトな話、でないと、若いヒトたちは「読めない」のではないかと。そこで終わるならそれは入り口の称号を与えるにふさわしくないと。

しかし、150%私見で言うと、ラノベを身近に感じることができさえすれば、多感で人の目を気にする思春期になったときに、「なんかこっち読んでたらかっこいいから」という理由でラノベ装丁でない本を手に取りたくなるので多分大丈夫です。とわたしは思います。それくらい中高生のカッコつけエネルギーは大きい。

とはいえ、これが通じるのは、あくまでもラノベを身近なものにできた人だけなのです。「お決まりラノベを"頑張って"読む」タイプの人だと確かに、それが読書の入り口というのはわたしも疑問に感じなくもない。そしてここで考えたいのが、そもそもその人たちは、「ラノベがなかったら書物を手に取っていなかった人たち」ではないかということです。

裾野が広がって手に取る人がふえた分、さて次は別の書物を読もう!とならない人の数もまた目立つという事なんじゃないかなと思います。別にいつの時代も本読まない人は読まないですからね。裾野をラノベが広げてくれたぶん、読書継続人口はむしろ増えているのではというのが私見です。

 

そもそもラノベの定義ってなんでしょう。ラノベレーベルの出版で文庫の形をしている、というのがひとつではないかなと思う。児童文学とと大衆小説をどちらも書く人間はたくさんいるし、ラノベを書きながら純文学誌に投稿する人の人数もそう少なくない。書き手ではもはや区別できない。もちろん、内容では全く区別は不可能だし、見た目も重要。まったく同じ内容がハードカバーで出たとき、それをラノベと言い切ることが出来ますか?

古典と言える作品を、サブカルチャーの引用から知って触れた人間はとても多いと思う。過去の作品は引用され続けなければ風化してただの遺跡になってしまう。村上春樹1Q84ジョーオーウェルの1984年を知る。そういうもの。

 

この話、始まる前から結論は一つしかない。

好きなものを好きな時に、必要なものを必要な時に読めばよい。

以上。

 

それを言えない人間こそ、「教養」の呪縛に囚われていると思う。あるものを知っているから偉い、知らないから見下してよいという発想が根本にあるからこそ、意義の定まっていない現代の作品を「甘く」見ることが出来るんじゃないかな。言ってしまえば読書なんて、特に小説なんて読まなくても生きていけるし。生に必要不可欠なものでは全くない。

 

何かを馬鹿にする暇があったら何かを勧めればいい。同じ方向を仮に向いていたら、良いフォロワーになってくれるでしょう。