名前を変えたくらいじゃ別の人間にはなれないのだと思った
名前を変えたくらいじゃ別の人間にはなれないのだと思った。
ひとつの名前が板につきすぎると変えたくなる。名前と環境を変えたら自分として扱われなくて済むと思った。
しかしそんなことがあるわけもなく自分はどこまでも自分であり、はっきりとなど分かれておらずただただ僕であるだけであった。僕は僕であったはずが気づけばわたしと邂逅しておりその間にもう差はなかった。
意識して一人称を使い分けていた事もあったが意識しなくても一人称がばらばらになってきた。これは何を意味しているのだろうか?単なる気分の差?環境?適応?
名前を変えたくなると言うもののなんと呼ばれる事にしようと自分で決めることは案外少ないものである。現代においては。昔のことは知らない。
そもそも本名・戸籍名というものはほとんどの人間にとってもらいものであるし、渾名やニックネームなどというものだって他人からの呼称が先にあるものだ。なんの他人の意識も介在せずこう呼んでくださいと言って自分で決めたその名前で呼ばれた経験のある人間はそう多くないと思う。いや他人の意識を介在せず決定されたものなど存在しない?どこまでが他人の意識?
思えばわたしのことをここではこう呼んでください、別の場所では別の呼称を使ってくださいとお願いすることの多い人生である。相手をどう呼ぼうとその人の勝手であるし多くの名前はもらいものであるはずなのだがわたしの場合どうもそうではない。
名前を切り替えることはわたしを主として見れば世界の切り替えを指しているし世界を主として見れば僕の切り替えを指している。戸籍名含む幾つかの名前をそうでない環境で使われることはどうにも苦手である。この世界では僕はそちらのわたしではないしわたしは僕のいるそちらの世界の住人ではないから違和感がある。解離させておきたいという心情がそこにはある。ただ個人がそこまではっきり分かれられるはずもなかったのだと気づくことが最近多くてかなわない。
名前を変えたくらいじゃ別の人間にはなれないのだった。
自分として扱われたくないという感情。あれとそれとこれが地続きであって欲しくないという願い。世界は分断されているべきであってほしい。この世の中には世界と世界を横断させる装置が多すぎる。
自分を真ん中とした空のドームを一つの括りとして、世界は断絶されたドームの連続では無かろうかとよく思う。そういう願望があるのだ、多分。
僕は僕でいられなくなってきた。
結局個体は個体でしかないのだろうか。
The WorldはThe Worldでしかないのだろうか?
"World 5.【可算名詞】 (個人の見たり活動したりする場としての)世界,世間.
My world has changed.
私の(目に映る)世界は変わった.
I like fantasy worlds.
私は妄想の世界が好きです。"
可算名詞があった。
まだ少しworldにsをつけて生きていきたい気もする。