自分の人生を切り売りするような文章を書いたら終わりだと思っていた。小説を書くならその人間を外から動かす神になるべきで、その登場人物の「心情を理解」する存在でなければならないと。しかしそれで文字を書くのを諦めてしまうほど馬鹿馬鹿しいことはないなと思った。始まる前から高い高い壁を設定して結局やらないのはそれこそ意味がない。
文字があることで、他人に伝えることができるし遺すことができると再発見したことがあった。当たり前だけれど、あえて意識することなんか少ない。文字が無くなれば文化がなくなるなんていうとなんだか大きな話な気がしてくるけれど、一人の人間の小さい人生にだって同じことが言える。遺すことは大事だ。どうせ忘れてしまうのだから。
文字は自分の脳に収まらないことを記録する外部記録装置である。脳は頭が良くて頭が悪いから忘れるという機能をもっている。脳の頭の良し悪しなんておかしな表現ではあるけれど。
他人に向けた文章と自分に向けた文章というわけ方がある。でも身をもって思う、ある精神状態の時にしか自覚できない、理解できないことなんて膨大にある。自分も昔の自分の気持ちはわからない。ニヒリズム的に他人の気持ちはそもそもわからないというのは良くある話だが、わたしの場合、自分の気持ちもすぐにわからなくなる。人間は連続性をもって個人と認識されるものではあるけれども、その連続性は毎時間ごとに限りなく取捨選択されていて、捨てられた感情は自分にとっても自分でなくなる。思い出すという行為そのものが過去の自分とのコミュニケーションというわけだ。
自分は自分とコミュニケーションを取るのが下手だが、それも「コミュ障」ということになるのだろうか。過去の自分との対話が得意な人間は一体どう他人に見られるのだろう。
すぐに第三者を設定するのも良くない癖だ。プライドが高いのだろう。よく見られたいから、見られる文章を書きたがる。書くことをすぐに恥ずかしがる。そして見せたら見せたで、高評価を期待する。つまらない生き物だ。
だからこそ、人生を切り売りするような文章を書いたら終わりだなとと思うのだ。プライドのせいだ。自分とかけ離れた世界が批判されようとそれは自身のアイデンティティは傷つかない可能性が高い。しかしかけ離れた世界は書くのが難しい。そこで筆を止める。諦める。そうやって生きてきたように思う。
発言の責任というか、著作権が全て自己に還元されるのは面映ゆいところがある。全て考えて発言しているのは自分であるにもかかわらず、日常を送っている自分とそれを表現している自分が結びついていることを知られたくない他人というものが存在する。世界を分けて生きている。名前を分けて生きている。ペンネームやら源氏名やらというのはそういう心情からくるものだろう。それが好きか嫌いかは何に因るのだろうか。インターネットをどう捉えて生きてきたかという世代間格差もあるかもしれない。理解されにくい趣味や活動をしているかどうかにもよるかもしれない。表の自分はまるでメジャーな世界に生きているような顔をして、メジャーでない部分は別の世界で別の名前で生きていく。マイナーが許され辛い社会であることにも関係があるのかもなと思った。

 

忘れた頃に思い出して書いてみると大体普段考えていることなんて重複しているなと飽き飽きする。その中にもわたしがわたしとして連続性を保つために捨てられた、死んだ思考を遺しておけるだけでも良いことにしよう。