何も考えたくない。

家に白くて足袋のように親指だけ離れている靴下がある。確かどこかに宿泊した時に浴衣についてきたものをそのままもらってきてしまったのだと思う。わたしが履いた靴下が誰かにリサイクルされることはないだろうからもらって悪いものではないだろうなとも思う。

わたしはその靴下が嫌いで、なぜなら親指だけ離れているからだ。その靴下の存在意義の否定である。それならさっさと捨てれば良いものを、そこにあるというだけで一週間に一回くらいは履かれている。毎回何だかんだ履かれて、洗濯され、収納され、また履かれている。洗濯しているのはわたしなのだが。

ルーチンに一度乗ってしまったものをそこから放つのは嫌いな靴下ですら難しいらしい。地味にエネルギーがいる作業だ。

別に靴下マニアでも何でもないし、よく物をなくす上に物を探すという情熱をあまり持たないので、靴下は無くしても良いよう同じものを多量に買ってごまかす事が多い。靴下に限らず、ペアのものはペアでなくなったと気づいた瞬間にペアでなくなるものであって、気付かなければペアのままだからだ。そういったものはするりとルーチンから抜けていくようだ。多分6枚3ペア同じものを買って5枚無くして初めてまともに「無くした」とわたしの頭の認識にのってくるのだろう。

嫌いな靴下はなぜかなくならない。これは本当に1枚無くしたら使い物にならなくなるというのに、杜撰に扱おうがすっかり2枚で毎週鎮座している。はやくどちらかにいなくなってほしい。

嫌うというのは意識が向かうということだ。特殊に意識に登ってくる、ルーチンに収まった嫌いな物体を排除することのなんと難しいことか。人間も生活もそうなのかもしれない。だとしたら嫌だなあ。できれば6枚3ペアの好きでも嫌いでもない靴下を無くさないような人生が送りたい。とはいえもう手元に4枚しかないし彼らが元々のペアだったのかは全く定かではないのは人生だから致し方ないのであった。