ラノベが文学の扉になるかについて

みみずくん@ずっと学問@noboriryu_taka

こんなこと言うと怒る人いるけど、私はライトノベルは読書の入り口としても認めてない。入り口は江戸川乱歩とかルブランの推理小説で良い。まずラノベ読んで読書した気になってるのが腹立つ。ラノベの中に後世残る作品がいくつある?時間が勿体無い。この事だけは理屈とかじゃなく認めない。

 

 と、こんな意見を見つけたのでいくらか言及したりしていた。

まず前提としては、僕は後世に残るかどうか、有名になるかどうかわかってからたしなむというのも悪くはないけど、同じ時代にいるものとしてちょっとつまんないよねという立場であることです。時間がもったいない、認めないというのはあまりに面白くない。

 

まず自分の体験として話をする。

微妙に世代が上であり、電撃文庫がそれなりに身近な存在になって、ライトノベルに積極的にならずともアクセスできるようになったときには既に中学生だったので、この問題、実は当事者としてはよく分からないので反論が出来ない。しかし、ハリーポッターとかダレンシャンとかデルトラクエストとか守り人シリーズとかレイチェルとかバーテミアスとかエラゴンとかブレイブストーリーとかそういうファンダジーにまみれた読書をしていた小学生時代は過ごしていた。これらは多分ラノベレーベル小説と根本的には種類として変わらないと思っている。じゃあ彼の言うような、乱歩、を読んでなかったかと言われると読んでたのよね。

前述したとおり、その後ようやくラノベが近しい存在になって、ハルヒキノ世代はそこそこ手を出してしっかり読んでいる。そしてなんかカッコいいからという理由で星新一やら村上春樹やら、森博嗣やら福井晴敏やらに手を出し、現代小説沼に片足を踏み込み今に至るわけである。

つまり、いわゆる「お決まりハチャメチャ学園展開ラノベ」が台頭するようになったときは既に高校生になっていたので、テンションについていけずその手のものが全く読めなくなってしまっていたんです。初めてその手のものに触れたのはたしか「バカとテストと召喚獣」だったと思うのだけど、テンションについていけず本を途中で放棄するという当時のわたしとしては衝撃的な事があった。

結局わたし自身は、今の世の中で想像されるような「いわゆるラノベ」を全くに等しいほど読んでいない。だから分からんのです。それらがあまりに広すぎる書の国の「入り口」となりうるかどうか。わたしはそれを経験していないから。入り口でなかっただけでなく、そもそも、読んでいないのです、たぶん。

 

夏目漱石江戸川乱歩も当時の「超流行作家」であり、「教養」なり「崇高な趣味」なりではなかったというのはよくある話なので今回は言及しません。その上で、彼の気持ちも分からんでもないのです。今回焦点になっているのは、

”お決まりラノベは本当に、「ラノベ形式」でない書に次のバトンを渡せるのか?”

って事だと思うのですよね。

 

その疑問を持ちたくなる気持ちは正直この手のラノベを「読んだことのない」人間であるわたしにはよくわかるのです。あの形をしていて、あの絵があって、あれくらいで終わるライトな話、でないと、若いヒトたちは「読めない」のではないかと。そこで終わるならそれは入り口の称号を与えるにふさわしくないと。

しかし、150%私見で言うと、ラノベを身近に感じることができさえすれば、多感で人の目を気にする思春期になったときに、「なんかこっち読んでたらかっこいいから」という理由でラノベ装丁でない本を手に取りたくなるので多分大丈夫です。とわたしは思います。それくらい中高生のカッコつけエネルギーは大きい。

とはいえ、これが通じるのは、あくまでもラノベを身近なものにできた人だけなのです。「お決まりラノベを"頑張って"読む」タイプの人だと確かに、それが読書の入り口というのはわたしも疑問に感じなくもない。そしてここで考えたいのが、そもそもその人たちは、「ラノベがなかったら書物を手に取っていなかった人たち」ではないかということです。

裾野が広がって手に取る人がふえた分、さて次は別の書物を読もう!とならない人の数もまた目立つという事なんじゃないかなと思います。別にいつの時代も本読まない人は読まないですからね。裾野をラノベが広げてくれたぶん、読書継続人口はむしろ増えているのではというのが私見です。

 

そもそもラノベの定義ってなんでしょう。ラノベレーベルの出版で文庫の形をしている、というのがひとつではないかなと思う。児童文学とと大衆小説をどちらも書く人間はたくさんいるし、ラノベを書きながら純文学誌に投稿する人の人数もそう少なくない。書き手ではもはや区別できない。もちろん、内容では全く区別は不可能だし、見た目も重要。まったく同じ内容がハードカバーで出たとき、それをラノベと言い切ることが出来ますか?

古典と言える作品を、サブカルチャーの引用から知って触れた人間はとても多いと思う。過去の作品は引用され続けなければ風化してただの遺跡になってしまう。村上春樹1Q84ジョーオーウェルの1984年を知る。そういうもの。

 

この話、始まる前から結論は一つしかない。

好きなものを好きな時に、必要なものを必要な時に読めばよい。

以上。

 

それを言えない人間こそ、「教養」の呪縛に囚われていると思う。あるものを知っているから偉い、知らないから見下してよいという発想が根本にあるからこそ、意義の定まっていない現代の作品を「甘く」見ることが出来るんじゃないかな。言ってしまえば読書なんて、特に小説なんて読まなくても生きていけるし。生に必要不可欠なものでは全くない。

 

何かを馬鹿にする暇があったら何かを勧めればいい。同じ方向を仮に向いていたら、良いフォロワーになってくれるでしょう。