「主体」になるということ

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見かけて気になったので、「思いやり」と「かげぐち」の体系としての社会、という以上の論文を読んだ。1994年の論文だそうだが、(奇しくもわたしの生まれた年と同じだが)、全く古びることのない名文だった。社会学系論文に全く明るくないことを前提として、思ったことを書いてみたいと思う。

 

本論文では、現代社会が形成される形式・技法として、「主体」(=私)が他者とともに、”承認と葛藤”という傷つけあう行為を日常的に行うことなく「社会」を運営していくそのあり方について述べられている。アイデンティティ(「存在証明」)の獲得には他者の、それも承認をしてくれる他者が必要不可欠であり、そのためには「思いやり」と「かげぐち」という日常にあふれる技法が必要ということだ。コントロール可能な甘い承認をお互い投げかけあうことで社会は平和に運営されており、その技法によって押しつぶされた葛藤は、「かげぐち」という形でこれもまた「思いやり」の枠組みの中で消費されていく。運営上は適切なシステムであるものの、これは自己の「主体」もまた失われる、自由の損失という欠点を孕んでいる。体系の維持に不可欠な「主体」の損失をどこまで個々人が許容し、また「社会」がそれによるデメリットをどこまで容認するのか。25年前に指摘されたこの「社会」の形式がいまなお十分通ずる現在において、生きにくさとはなにか、どう生きてけばいいものか。そんなことを考えた。

 

”<アイデンティティ>にはすべて、他者が必要である。(中略)「自分が何者であるかを、自己に語って聞かせるストーリー」は、「他者による事故の定義づけ」があってはじめて確かなものになる” ”社会は、自分ひとりでは獲得しえない存在証明のために、ひとびとが他者からの承認を求めて形成するもの" 

これは筆者も述べている通り自明のことと思う。そして他者もまた「主体」であり、「主体」である私の存在証明をするはずの他者をおびやかす。この「主体」同士の闘争(まるで万人の万人による闘争である)を回避するために、緩衝材としての「思いやり」が発動する。

他者からの「主体」におびやかされ、「主体」であるはずの自己が「客体」に落とし込まれるということは、日常においてよくおこる。恋人の求める理想の女性像を演じる彼女などはよい例だ。いやだと思いながらも変わらない日常を繰り返す被雇用者などもそうかもしれない。

しかし、「思いやり」が行き過ぎた結果ではあるものの、「主体」としての個人を放棄し、「客体としての自分」にすべての存在証明を依存して生きていくこともまた可能である。むしろ傷つきやすい自己を守るのにはよい手段だ。これはある自己と自己の乖離であり、「社会」の問題であると同時に自己同一性の問題でもあるように思う。「客体」と「主体」のパワーバランスが自己の中で発生し、それらは本音と建前と呼ばれながらも同一の自己ではある。建前と思いながらも行動を重ねていくと、それは他者からの評価として行為者に帰ってくる。アランの幸福論にもある通り、礼儀としてのほほえみの動作は人を孤立の悲しみから救うのである。干渉が起こらないわけは全くなく、それらは混ざり合って私に自己と認識されるようになるだろう。さて、「主体」はどこまで生き残れるのだろうか。

その「主体」を強く持ちすぎることによって、”感受性と機転と思慮によってはじめて可能になる"(原文より)「思いやり」を使用できない、または使用しない人間は社会のために排除されうる。ここに葛藤を強く感じながらも社会に属するためにしがみついている人間がいわゆる「生きるのがしんどい」人間であろう。

誰しも傷つきたくないという思いは持っている。しかしその中でしがみつく技術に長けていない、「主体」を失うことを恐れる生きにくい人間は何をするか。一つの方法が、「主体」と「客体としての自分」を使い分けるための複数の環境を持つことだと思う。もちろん分けた環境の先でも「客体としての自分」が発生するが、その個数が多いほどにひとつのある「主体としての他者」に飲み込まれる恐怖は薄れていく。

たとえば、名前、容貌を分けたり変えたりする。これらの直接的に個人を決定するレッテルは、他者からの自己の過去へのアクセスを許容し、他者から現在だけでなく過去も含めて飲み込まれる恐れが発生するため、変更によってそれらを回避することが可能となる。特にひとつのある「主体としての他者」に飲み込まれる恐怖を持つものは、積極的に自己を分離させることによってその恐怖を避けようとする。犯罪を犯した、などの大きな問題に限らず、すでにその個人によって「客体」でしかない個人の決定事項、すなわち社会的立ち位置、性別、年齢、等々。この点において名前と容貌を容易に"変更"(あくまでも偽りとここではとらえない)できるインターネットはやりやすいところがあるだろう。

 これは、「客体としての自分」と「主体」を無意識に、違和感なくうまく癒合させることが可能な人間である、またそれが可能な環境に属している場合には起こらない事象であろうと思う。原文には「社会」の中で「思いやり」の体系のなかにいて、「かげぐち」の技法を使いながら生きている人間について、以下のように述べられている。

"ほんらいの私は「かげぐち」など言わないのだ、「かげぐち」は一時的な私なのだ、私の持っている道徳心は自分の言った「かげぐち」を許せないほど高いところにあるのだ、「思いやり」深いのだ、という自己のリアリティを再度確認するのである"

これは自己を対象にした性善説である。自己の肯定先がすでに「客体としての自分」の中で完結してしまっている。そこにはもう元々の「主体」などないように思える。もちろんこれは極端な例であることは理解している。

あるひとつの「思いやり」の体系の中の住人となってしまうと「主体」も「客体」もなくそこで完結してしまうと思われる。随分先に述べたとおり、これも一つの生き方であることに間違いはないが、そこに葛藤を持つことは、よく言えば体系を俯瞰できるということにもなる。たとえ先に排除を受けたとしても、一種意識的に「思いやり」をやめている状態になる(千葉雅也氏的に言うと、「ノリ」から降りる)こともまた一つの生き方ではないか。

 

「主体」がたったひとつのある「主体としての他者」に乗っ取られることを防ぐには「存在証明」をしてくれる環境を複数持つことが重要であるという、結果的によくある論調になってしまった。しかも書いたこと全ては全体としてみればとりとめなく、この言葉でまとめとなるとは思えない。詰めなくてはならない視点はたくさんある。あくまでも思考記であるという言い訳を一つおいて、今日は筆をおこうと思う。