鍵がない

心が悲しい気持ちで満たされると本当にしっかり思考が空回りする。行動を起こしさえすればそれなりに幸福感を得られそうな事柄に手出しする元気もわかない。それがどんなに簡単なことであったとしても、だ。

久々に鬱屈していた。この気分はなりはじめてしまうと最早何が原因だったのかは直接の問題ではなくなる。いま悲しくて、辛い。それにどうしようもなく振り回されてしまう。どうにも纏わり付いた負の感情を積極的に打ちはらうのは得意ではない。

そんななかで帰路について、スーパーに寄り、家に着いて、鍵が無かった。

鍵がない。

ひとつの問題の発生である。

解決されないことで直接的に不利益を被るのは自分だけであり、尚且つある程度致命的である。

自己解決する必要度の高い問題の発生というのは思考回路の強制的な一本化に非常に役に立つものだ。気づいた瞬間からまるで意識に登る前かのように自分の行動の振り返りと次なる行動策がいつのまにか浮かんでくる。可能性の最も高いのは職場に置いてきたことで、次点でスーパーで、なくはないのが道中での紛失。見つからなかった際にするべき各方面への連絡と今日の宿泊先と。翌日以降には大家に相談に行くべきか。

そうしていると鬱屈はあっても押しやられていくもので。

結局第一候補の職場に普通に置きっ放しにされていたわけだけれども、解決したころには悲しい気持ちはなりを潜めていたのであった。むしろウォーキングできて良かったなあという満足感があったくらいだ。

負の感情が起こったときにそれに満たされないようにするのは比較的難しいことで、そのきっかけを自分から探しにいく、行動に移すのは相当にエネルギーが必要である。人に機嫌をとってもらうのはあからさまに悪いことだし、自分で自分の感情を完全にコントロールできたら理想的なのだろうけれども、そのきっかけくらいは外部委託しても良いのではないかと思った。

今回の鍵の紛失はただの事故だけれども、そんなきっかけを与えてくれる人間関係があると少しだけいいのかもしれない。もちろんその相手に当たり散らすのはあってはならない。綺麗にきっかけだけを置いていってもらえる距離感は、こちらの礼儀無しに実現可能なものではない。

人間なので、悲しくはなるし、鍵もなくす。

でも丁寧に生きていけたらいいなと思う。