きょうしか書けないことがある気がした

特に心に溜まっている書きたいことがあるわけではないけれども、今日しか書けないことがある気がした。

 

いや、いつだって書けることだ、きっと。それくらいにあるひとりの人間の思考は有限であり、そして逆に言えば忘れていってしまうことも毎日無限にある。そもそも視覚から認識に、認識から短期記憶に行く過程ですらとてつもない情報の切り捨てを我々の脳は勝手に行っているわけであり、我々の意識は、物理的な脳という物質が勝手に整理してパッケージングしたそれらを受け取っているだけの受動的な存在なのである。

今日起こったことだって、まあ、一部を除いて毎日、あるいは毎週末に起こりうるくらいの頻度で発生する事項でしかない。目覚ましをかけずに2人で寝過ごした、ゲームの山場をクリアした、昼食を家で作った、企画展に行った、居酒屋に行った、酒を飲んだ、等々。その企画展が寺山修司に関わるものだったことは文字を書こうと思ったことにある程度影響はあると思われるが。そして自分の心を打ったと思った詩作を忘れる始末である。エッセンスさえ残ればよいなんてそんなの戯言で、後から字引出来なきゃ割と意味がない。このポンコツが。

 

物事の感じ方が行政の括りや紙一枚で何かが変わるとは思い難い。何もなければ明日の夕方には苗字が変わることにはなるが、だからなんだっていうんだという気持ちが8割、必要な通過点だからそういうものだと思う気持ちが2割、後の気持ちがゴミみたいな小数点以下。もしかするとそのゴミみたいな分量しかなかった気持ちが数年間で増幅され、あたかも初めから自分そういう気持ちも持ってましたみたいな風に記憶修正されて5年後にやってくるかもしれないが、そんなことは今のわたしの知るよしもない。

一緒に住居が変わるだの、結婚式当日に籍を入れるだのする人には特別感もあるのだと思うが、それだって紙一枚でプロフィールが変更されたことに感動するというよりは、実際に自分の身を置く環境が変化することに感動するのだろうし、そこまで人間繊細に(機械的に)出来ていないのではという気がする。とはいえ、なにか今日しか書けないことがある気がしている時点でわたしもその影響をなんとなく受けてしまっているということになり、結局何を言っても単なる強がりになってしまうというジレンマ。

一体何に対し強がっているんだろうわたしは。変わることが実は少しだけ怖いのかな。そうかもしれない。全く「いいえ」を押すつもりがなくても「はい」を選びそして自分から"選択権が消失する"(そりゃ選択したんだから、当たり前なのだけれども)のは怖い。そんなの突きつけたってわたしは「はい」を選ぶに決まってるだろ、わざわざ確認するようなことしたってわたしは何も変わらないぞと言いたいのかもしれない。

正直この一種のセーブポイント、後戻りできない最後通牒みたいな顔をしながらも、わたしが明日やることになることはどちらかといえば選択なんかじゃなく確認に近い。セーブポイントと選択ポイントは違うように、すでにわたしはたくさんの選択をしてきている。自分は自覚的な・積極的な選択をしてきたと思っていても、きっとそんなこともないのだろうなとも。明らかに自分というバイアスのかかった色眼鏡でものを見て、現実には無数に存在する選択肢から3つか4つしかないふりをして、その中からだけ"選んで"きた。3つとか4つを1つに決めるのは大したことじゃない。無数を勝手に3つとか4つに絞って、そして主人にそれを気付かせないのが憎い脳の仕業である。その方がエネルギーが少なくて済むのはまあ、わかるし、抱く疑問は少ない方が結局総合的な満足に繋がったりするわけだし、よくできているなと感心はする。もしかするとわたしが明日起こることを選択ではなく確認でしかない(つまりわたしにはもうそもそも選択肢なんかなかった)と思っていることも、わたしの脳が勝手に無数を1つに絞った結果なのかもしれない。臆病な奴にも見える。でもその方がきっと上手く行く。as is well.

 

言葉は残さないとなくなってしまう。

起きがけの夢を朝ごはんを食べたらもう忘れてしまうように。

しかしいつも言葉は後からやってくる。

だからやってきたあと、忘れてしまう前に。

そのわずかな時間でかすめ取ってフックをかければいいのです。

いつでもそこに戻ってこれるように。

セーブポイントへのささやかな反抗を。